KITAわが国の工業化のあゆみと国際技術協力の問題点(その1)
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わが国の工業化のあゆみと国際技術協力の問題点(その1)
2000年3月
(財)北九州国際技術協力協会
清水 泰
目次
第1章 はじめに
第2章 我が国の工業の黎明期
第1節  明治政府の工業化方針
第2節  官営製鉄所の初期の人材
第3節  製鉄所の人材育成
第4節  管理と現場経験
第5節  技能者の養成
第6節  製鉄所の戦前の設備保全と予備品製作
第3章  戦前の機械工業
第1節  我が国の機械工業
第2節  製鉄所の機械技術水準
その1  設計技術
その2  施工技術
第4章  日本製鉄時代
第1節  官営から民営へ
第2節  戦前の製鉄所の経営管理と文化
その1  権力的管理
その2  生産技術と文化
その3  日本人と分析的手法
その4  西欧的管理
第5章  計画経済と生産管理
第6章  戦後の管理導入
第1節  敗戦と省エネルギ−
第2節  占領政策の変更と米国の技術協力
第3節  米軍の管理の指導
第4節  当時の管理状態
第5節  米国の現場管理の特徴
第6節  品質管理の導入と管理意識
第7節  日米の管理方式
第8節  米国の管理水準
第9節  朝鮮戦争特需と品質管理
第7章  製鉄所の合理化
第1節  機械予備品の製作の外注化
第2節  部品の材質改善
第3節  その他の補助経営部門の合理化
第8章  労働組合結成と民主化の進展
第9章  予防保全や非破壊検査の導入
第10章  米国技術の導入と人材能力
第11章  コンピュ−タ−の導入と企業の技術
第12章  作業の請負化
第13章  高生産性と初期の環境汚染問題
第14章  公害問題と公害対策
第15章  戦後の管理者、監督者の能力開発
第16章  終わりに −環境国際協力は如何にあるべきか−
本文
第1章 はじめに

 現在、途上国は国を豊かにするため、工業化を進めているが、工業は非常に多くの経営資源が必要であるので、これらを管理できる人材を必要とする。途上国は人材育成が余り行われていないので、工業の発展の点では、我が国のように江戸時代からの人材育成の歴史があり、かつ、百年の工業の歴史を持つ国とは比較にならない。その結果、資源、燃料、エネルギーの無駄使いが多く、生産性は上がらず、工業化の悪い面、環境汚染のみが問題になり、工業は発展せず、国、企業ともに経済力が極めて低く、環境対策が遅れている。技術協力の基礎である人造りは相手の人材レベルや国の経済力を考え、いわゆる、適正技術移転を目標に、目標と現状の差をどのように埋めるかを考えて協力することであって、徒に、新しい知識を与えればよいという事ではない。
 我が国の人材能力が高いのは江戸時代の教育に遡り、1868年当時の識字率は男性、43%、女性、15%といわれており、1922年のロシア革命、1949年の中国革命時の識字率がともに15%であったのに比べ大きい格差がある。
さらに明治維新後、先進国に比べて早く導入された義務教育の結果、多くの先進国に比べて極めて高い教育水準を保っている。
 又、我が国では、古くから技術者が現場に出る習慣が出来ており、現場の実情を理解して行動しているので物造りの水準が極めて高い。
 又、敗戦の結果であるが民主主義が復活し、資本と経営が分離され、途上国に見られるような経営者が利益を独占することはなく、経営者、一般従業員の給与格差が極めて少ない平等社会をつくり、従業員の意欲を高める結果になった。
 更に、占領軍の命令で労働組合が組織され、戦前にあった職員、職工という身分は生産業務を分業する職分になり、人事管理制度の変革の結果、旧職工が管理者に昇進する道もできたため、従業員の意欲が高まった。
 又、戦前の権力的管理下では、部下に仕事を教えないのが一般的であったが、戦後の民主的管理の結果、部下に仕事を教える習慣に変わり個人の能力が高まった。これも過去の権力支配を基本にした封建社会から個人の能力を尊重する民主主義社会に変わった結果と考えられる。オンザジョッブの教育の有効性は言うまでもないが、権力管理の国では考えにくいことである。
 我が国の職場文化といえる改善も社会主義国、独裁国のように、命じられた通り仕事をすればよい国ではその概念がないのが当然である。
 又、我が国の特技、作業者が行う小集団活動も個人主義の国では受け入れに抵抗があり、かつ、集団メンバーが管理意識を持たない途上国では、これがすぐ、適用出来るわけでない。我が国でも、戦後、一般従業員が管理意識を持っていなかった時期には、活動は形式的であり、効果があがらなかった。しかし、活動は管理意識を持たせる目的もあるので、管理意識を持つまで、小集団活動を始めないということにはならないが、小集団活動を有効に行うには管理意識を持たせるのに大きい役割を持つ第一線の指導者層の力が必要であり、戦後の我が国同様、現場指導者層の弱い途上国ではその強化が先決である。
 又、我が国が単一民族、単一文化、単一言語という条件下でコミュニケーションが極めて容易である事は職場管理上、極めて有利な条件である。そのうえ、労働は罰と考える国や労働をいやしむ国があるのと全く異なり、我が国では仕事は天職という労働尊重の念が強い。
 又、原始宗教、神道の精神で物を大切にする気持ちも強い。戦時中、米国では物は労働者の労働成果であるので大切にしなければならないという働きかけをしているのを読んだ事があるが、米国が説得であるのに対して、我が国は意識である点で大きい違いがある。
 このように、諸外国と異質の点が多い国であることを自覚した上で人材育成協力を行えばより効果があがる。

 以下、もと官営であった八幡製鉄所の事情を基に、何故、日本が戦後急速な経済発展をとげ環境問題を克服することができたかを分析し、日本の過去の問題点を色々あげているが、これらの問題は何れも現在の途上国に存在していると考えて間違いないこと、又、日本と比較にならない人材面の低い途上国に日本の経験をどのようなステップで移転すれば、教えた事が砂上の楼閣にならずに途上国に役立て得るかを検討する材料になれば幸いである。八幡製鉄所は国内では特異な例ともいえるが、現在、官営企業の研修員も多いので官営共通の問題がある点では意義がある。多くの、批判、意見を伺いたい。

第2章 我が国の工業の黎明期

第1節 明治政府の工業化方針
 我が国では、明治維新後、多くの旧武士中心で編成された岩倉使節団を欧米に派遣し欧米の文物を調査し、国の基本方針を定めた。この調査の報告は極めて優れたもので、現在の途上国でこれだけの調査が出来るかどうか疑問であるが、如何に封建大名が人材育成に努めたかがわかる。
 政府は資本主義経済の下で富国強兵の方針に基づいて工業を奨励し、徳川幕府から引継いだ鉱山等の官営事業を既に徳川幕府時代に財を成した三井、三菱等の豪商を中心に民間へ払い下げる一方、紡績工場等の軽工業を中心に民間の起業を奨励し、製鉄事業のような巨額の資金を必要とするものは官営で発足させた。
 明治政府は大胆に欧米方式を導入したが、日本人の異文化受け入れに対する柔軟性、人材能力が幸して欧米文化に基づく工業化は、当初、人材不足に悩まされたが、次第に人材を造り、何とか工業化を進めた。
 我が国は欧米に遅れて工業化したため、欧米のように、蒸気機関の開発を基本とした一連の工業の発展過程を経た英国と異なり、すそ野産業なしに一気に、一貫製鉄所が建設されているのは今日の途上国と同様である。

第2節 官営製鉄所の初期の人材
 既に、国内でも、釜石では洋式高炉の操業を試みていたが、1898年に始まる八幡の一貫製鉄所の建設は我が国の本格的な工業化の始まりであった。
 当時、まだ、国内には工業分野の人材は極めて少なかったが、少数ながら工学部を卒業した人もおり又、卒業後、ドイツ等で学んだ技術者が居たものの、製鉄事業に必要な知識経験がないため、製鉄所の計画は一切、ドイツの会社、グーテホフヌンクスヒュッテ(GHH社)に依存した。同社は製鉄所であり、機械メーカであったので、ハ−ドウエアの供給、技術者、職工の実習、ならびに、技師、職長の雇い入れ斡旋協力一切を同社に依存できる利点があった。
 工業、特に、重工業では、種々の多くの人材が必要で、途上国の工業化が経済的に進まない原因は、端的にいえば人材不足であるが、当時の我が国も同様人材不足で、技術者のみならず重工業分野の建設、操業にあたる熟練職工は当然の事ながら皆無に等しくドイツから少数の基幹人材を雇い入れたが、人材育成はそう簡単に進まず、又、設備投資が大きいため、操業当初、可なり長い間、経営不振が続き、11年目に一応黒字を出したものの、鉄の売値は原価主義であった事から、決してよい状態ではなく、やや、安定した経営状態になったのは操業から30年たっている。
 当初の製鉄所の職工は、素人工ばかりで、溶けた鉄を見たことがあるのは大阪で鋳物工場に働いていた一人だけで、始めて平炉に熔銑を入れるとき火花が散ると、作業員は皆、どこかに逃げ現場には誰も居なかったことが伝えられている。
 建設面でも従来、我が国の職人は大工、左官、石工、鍛冶、かざり職等で、鉄骨の加工、組立て、機械の据付け等の洋式の工事は、主としてこれらの職人が洋式の工事を行う技能を、作業を通じて次第に身に付けたものである。
 我が国では、製鉄所建設以前に陸海軍の工厰が建設され、工厰では機械製作に必要な鋳物、鍛造、機械加工等の作業が行われていたので、製鉄所の建設には、十数人のドイツ人を管理者、技術者、職長として雇っているが、その中で、僅か、二三人が建設に当たっているだけである。これは工厰から熟練工の派遣を受けることでコストが非常に高いドイツ人の雇い入れを極小に止めたためであろう。
 製鉄所の建設工事は多くの素人工を職工、職夫(人夫)として雇い入れ、極く少数の指導工が手取り足取りの指導をしながら施工するので、建設作業は非能率なものであった。しかし、現在でも途上国でプラント建設が自国で出来ないため、ターンキージョブ方式で契約する国が多いことから考えると、我が国では100年前に既に、自ら輸入鉄骨、機械を組立て、据付けて製鉄所を建設したことは偉大なことである。
 当時の技能工の状態は筑豊炭田にはすでに蒸気機関が使用されており、機械運転工は僅かながら育っていたようであるが、建設に必要な技能者の人数は大きく、要員不足対策として勅令で製鉄所が技能者を随意契約することが認められた。しかし、全国から流れ込んだ職人は触れ込みとは異なって、全く使い物にならないのが殆どであったと言われている。即ち、建設現場は人材育成の場でもあった。

第3節 製鉄所の人材育成
 人材不足に悩まされる製鉄所は、作業の熟練には経験年数を必要とするので儒教文化に支えられて終身雇用制が自ずからできたと考えられるが、終身雇用制を基本に1910年に幼年職工養成所を作り、幼年工を採用し、教育、訓練して作業者の不足に対処している。1912年に一般工に対する補修部を、1919年に技術員養成所を開き、工業学校を卒業して、現場の監督補助をしている従業員を教育する普通部、高等部で人材育成を進め、高等部を卒業すると、高専卒待遇をし、職員に登用したが、高等部卒業者の中には、実技もでき、能力のある管理者になった人も少なくない。
 我が国の特徴のある技術者の人材育成は入社当初に現場経験の機会が与えられる事である。大学を卒業した技術者は製鉄所では監督員と呼ばれていたが、監督員というのは正式の役分ではなく、掛長補佐と考えられるべきである。監督員は現場での問題を調整、解決することであった。このよい習慣は当時外国から雇い入れた工部大学校の、外人の教師、H.ダイアーが工学は現場教育が必要であることを強調した事から技術者が現場にでるよい習慣が出来たといわれている。
 既に、製鉄所の建設工事段階でも、部長自らが現場で施工の監督に当たっていることが後の平炉築造の宿老、小屋原の手記が物語っている。
 小屋原は、もと陸軍の小石川の工厰で働いていたが工厰を視察した当時の製鋼部長、今泉の目にとまり、今泉から強く八幡で建設に従事してほしいと要請され、長考の末、八幡行きを決意したと記している。
 しかし、溶鉱炉の築造にかかると、耐火煉瓦を取り扱った煉瓦工は一人も居らず、全く手取り、足取りで仕事は捗らず、出来ばえが悪いと現場巡視に来た部長からステッキで殴られたり、厚い目地にナイフを差し込んで積み替えを命じられる始末であった。
 このよい習慣で当時、製鉄所は組織的な管理は弱かったが、管理者、技術者個人が能力を持っていたので問題を見出し、問題を解決することができた。今日の日本の物作り経済は、現場中心の活動が基本になっているといえる。現在、途上国で技術者が現場に出る習慣のある国は皆無に等しく、知識はもっていても、作業の実態を知らない技術者が殆どである。

第4節 管理と現場経験
 現場経験をする事で、技術者は現場の問題の多い作業の実態や、作業者の価値観、個人の能力の把握ができる。又、この期間の主要な業務は現場の問題解決であることから管理の目的である、問題発見、解決の能力を養うよい機会である。日本の技術者、管理者が高い管理能力をもっているのにくらべ、途上国の技術者は現場を知らないため、どのような問題があるかを知るよしもなく、問題の解決、改善が出来ない。
 途上国の管理が悪い大きい原因は管理の出発点である計画を作るのには経験が必要であるが、技術者に経験らしい経験がないこと、個人が自分のデータをもっていても、自分のデータは自分の資産であるので出したがらず、又、企業にデータを蓄積する能力がないため、企業として共用できるデータ、すなわち会社の経験の蓄積がなく、結局よい計画ができない。たとえ、計画を立てても作業者のスキルが低く、実行ができないこともあって、管理が効果的に行われない。要するに、各レベルの人材不足が最大の原因である。
 効果的な管理は民主的管理のもとでは行われやすいが、権力管理下では言われた通り仕事をしなければならないので、管理の目的である改善は許されず、成果はあがらない。
 又、殆どの途上国で、今日でも機械の製作はできても設計が出来ない大きい原因も機 械がどのように使用されているかを観察する機会がないため、基本設計、即ち、ユーザーのノウハウがないからである。
 製鉄所の経営は、創業後、30年位で技術者や、技能者の水準が高まり、その結果、生産技術も改善されて、経営が安定したとはいえ、1948年に戦後始めてのアルゼンチンへの薄板輸出の際の製品歩留りが50%以下であった実情からみて、戦前の状態は 品質的、原価的に国際水準とは程遠いものであった。

第5節 技能者の養成
 我が国の職人の能力が高い原因は我が国に労働尊重の念が強いため、職人を希望する人が多かったからである。当時、建設、修理にたづさわる技能者は自ら、職人と称し、自らの職場を職人工場、生産工場を百姓工場と称し高いプライドをもっていた。
 職人の育成は封建的な徒弟制度で、技能習得はすべて見習いであった。親方は数人の徒弟を自宅に住み込ませ、自立までの徒弟期間は自分の弟子として職夫として同職場で働かせ、賃金は親方がとり退社後は家で子守、雑役をさせ、徒弟には僅かな小遣いを渡すだけであった。
 しかも、職場では難しい仕事、例えば、鋼材加工に必要な曲面の展開作業のように、当時は秘伝扱いの作業の場合、展開図ができると親方はすぐ、消してしまい、徒弟にも見せないという仕打ちであったが、徒弟は努力して仕事を盗み上達をはかった。従って自分で体得した技能は大切で簡単には人に教えなかった。
 官営製鉄所は定員制があったため、職工、即ち、雇用契約のある従業員は数が少なく建設工事のように、一時的な作業や雑役的な仕事は日雇いの職夫(人夫)で必要人員を人夫供給人経由で充足していた。職夫の中で建設、修繕に従事する職人は金工とよび、一般雑役の職夫と賃金ベースが可なり違っており、多くは、長期間同一職場で職工と全く同じ作業をしており中には、ボーシン、即ち、非公式な班長を勤めるものもいた。
 職人の教育の難しさは、能力の主要部分はスキルであり、これは経験依存度が高いためで、製鉄所の教育制度にも職人の教育はなく、1939年の労働省の技能者養成制度による養成工に先立ち、製鉄所が1938年から始めた養成工教育が始めてであろう。
 しかし、この場合も教育できるのは、知識と基本的な動作で、あとはスキルで補うが基礎知識があると熟達が早いことはいうまでもない。

第6節 製鉄所の戦前の設備保全と予備品製作
 製鉄所では圧延作業のように、衝撃がはげしい作業が多いため、他の産業に比べて故障の発生が多く、又、連続作業であるので故障休止は加熱中、圧延中の材料や熱が無駄になるので保全が大切である。保全を行うのに必要な修理部品の重要性を認識しているGHH社は、当時、周辺には工業が皆無であることから製鉄所の計画時に建設や設備保全に備えて部品製作や、機械の修繕をする修繕工場を建設した。この修繕工場は大規模なもので、当時のドイツのシュタールウントアイゼン誌に、「電気駆動の工作機械を持った工場」という紹介をされた新鋭工場であった。しかし、当時、ドイツでも余り電機を使っていなかったためか、GHHは電機の修繕工場は計画しなかった。しかし、しばらくして、製鋼工場の起重機のモーターが焼け、これを米国に送って修理したため、数カ月、生産が止まった経験から電機修理工場が作られている。
 機械部品製作に必要な図面は機械の分解時にスケッチをし、部品図を作ったため、修理部品の供給には全く問題がなかった。しかし、この直営の部品工場が地域の部品製作をする中小企業の発展を阻害するという別の問題があり、戦後、補助部門の合理化で部品外注方針を採ったときには、新たに中小企業を指導育成しなければならないという困難な問題を起こした。
 八幡の経験からブラジルのウジミナス製鉄所建設計画の際、修繕工場の必要性を幹部から指示され、必要な整備工場を計画した結果、操業時に保全部品に関する支障がなかった。
 当時、製鉄所の保全の責任は生産部門にあり、生産部門では機械が故障すれば修理するという、所謂、事後保全を行っており、工作部門は大きい突発事故があれば依頼されて修理をし、普段は修理よりむしろ、建設に重点があった。その結果、不況期になると工作部門が保全に重点をおくが、景気がよくなると建設第一で保全修理をおろそかにするので生産部門の不満も大きかった。
 製鉄作業は機械への依存が大きいが、当時の設備は生産能力は小さく、機械の構造は簡単で歯車はギアボックスなしのギアが露出した構造で、設備の生産能力が低いので、故障は生産にそれほど大きい被害を与えることもなく、修理も比較的簡単であったこと、かつ機械の故障は避けられないという諦めから故障を予防しようという考えは全くなく、故障すれば修理をすればよいという考え方であった。
 当時の圧延設備はドイツ製が殆どで信頼度が低く、一年に一回、予め、取り替え部品を工作部門で調査、準備して修理にかかるが、修理中に予期しない部品の損耗が発見され、修繕工事中に部品を突貫工事で製作せねばならない時もあり、年間修理に通常1ヵ月以上を要していた。大修繕は主要部品の取り替えのみならず、基礎の補強、圧延機のソールプレートを外し、工場に持ちこんで削正することも多かった。
 しかし、大修繕しても部品の品質が現在のように非破壊検査で確認できないため、大型部品の破損のため復旧に長期間かかる大事故が多かった。又、剪断機に機械を保護するため、安全ボルトをもった構造のものがあったが、当初の強度をもった材料が入手し難いため、頻繁に切断するものもあった。
 部品の管理は、部品を直営で作るため、「直営は只」という考え方から、誰が、発注すべき部品を決定するかという責任権限意識はなく、問題がありそうな部品は総て担当者が自分の判断で準備し、しかも工作に注文すると、「1個では作ってやらんというので5個頼んだ」というケースもあって、不必要な大きい部品が山積されていた。
 部品は初めは工場建屋内に保管しているが、拡張計画があると屋外に放り出され赤錆になっているものが殆どで、故障が発生して部品台帳にはあるが現品が見つからないのは通例であり、たとえ、あっても、その手入れに時間がかかった。
 当時、日常保全を行う生産部門の管理者は原価意識が低く工作部門への不信から突発故障に備えて各工場で多くの修理工を持ち、工場間で相互に技能者を融通する考えはないため、普段は仕事がなくぶらぶらしているという不経済な運営であった。
 しかし、国内には例外的ではあるが、鉄道省の機関車の計画修理のように、予防保全 が極めて効率的に行われていた所もあった。例えば、機関車の一般修繕(1ヵ年検査、修理)は劣化部を標準部品を取り替える4日半工程であった。
 製鉄所の機関車修理の場合は修理にはいってから劣化部品を作りとりかえるので、4ヵ月、半年は通例で中には、1年以上かかる場合もあった。

第3章 戦前の機械工業

第1節 我が国の機械工業
 当時、我が国では現在の途上国とは異なり、多品種少量生産の産業機械が労働集約的な方法で行われていた。しかし、工作機械製造の場合、工作機械の精度が悪かったためか、粗加工後した素材がはいるとその後はやすり、スクレーパーでの手仕上げであった。
 一方、横浜にあったフォードのノックダウン工場を見学にいったが、やすり、バイス がないので、工場の案内者に質問した所、米国から送ってくる部品をハンマとスパナで組み立てるのでやすり、バイスはいらないとの事であった。
 当時の日本は陸軍の歩兵銃のような大量生産品でも部品の互換性はなく、手仕上げによる現物合わせで、完成した銃の品質が変動するので全数射撃検査で銃の癖を記録していたが、ドイツでは既に、抜き取り検査であった由である。
 1965年ごろでも、まだ、日本のネジ工業界の水準が低く、ある機械メーカがドイツと技術提携してディーゼルエンジンを作る際、日本最高のネジ会社の製品が四回目でやっと合格した事を聞いている。ネジ工業がその国の工業水準を示すと言われているだけに、その頃でも日本の工業水準は高くなかった。

第2節 製鉄所の機械技術水準
その1 設計技術
 戦前の製鉄所では、技術者の設計能力もあり、技術者の経験と職人の高いスキルでかなり難しい仕事を行っている。
 すでに1907年ごろには、後の製鉄所長、景山のような優れた人がいたこともあって、天井起重機、炉の設計や、平炉工場の拡張時にドイツ人が設計した平炉の欠陥を改善するため、建物のスパンを拡大せざるを得ないようになり、難しい鉄骨の設計を自ら行った。その実績で、製鉄所は他の政府機関の工場建築まで受注している。現在でも殆どの途上国では工場鉄骨建築の経済的な設計ができない。
 高炉については、第一、第二高炉が設計不良で操業中止したため、野呂勝義が政府の依頼で改造に成功し、そのノウハウでその後の第三高炉以降、すべて、自社設計で建設され、海外の新技術を導入した後もこれを次の高炉に改良をして利用している。
 例えば、第四高炉の建設時に従来の原料車を垂直巻き上げから高炉内に装入する危険作業を除くため、傾斜塔方式の装置を輸入したが、入荷したものは外国で視察したスキップ方式でなく、ただ原料車を傾斜塔で巻き上げ、人間が手で装入するもので、作業上の危険は同じであった。その結果、自力で通常のスキップ方式を設計するため大がかりな実験装置をつくって試作装置を実験し、第一高炉の改修時に実用機を作り成功している。
 高炉は改修毎に次第に大型化しているが、特に、洞岡の高炉建設時に、従来の日産300トン余りの規模から一高炉、500トン、二高炉、700トン、三、四高炉、1000トンと数年間で急速に大型化し、戦後、戸畑建設時に1500トン高炉を計画するにいたった。戸畑工場建設には世界銀行の借款があり、世銀が予備調査に来たときも、1500トン高炉が日本で設計出来る筈がないと信用しないので、設計図を見せたところ大変、驚く一幕もあった。
 しかし、1930年のはじめに洞岡一高炉を計画する時には頗る慎重で、500トン炉が我が国の現状で可能かどうかを東大の俵国一教授の意見を聞き、巻上塔の設計は大事をとって経験の多いドイツのデマク社に頼み、ドイツ規格の鋼材が我が国のもので満足出来るかを機械試験し、我が国の平炉鋼はドイツ規格に対してむしろ優れていることを確認して国産鋼材を用いている。
 又、洞岡第二高炉から、高炉ガスの清浄に従来の湿式集塵機の代わりに製鉄所で電気集塵機を設計、製作し使用したが、現在、電気集塵機が設計できる途上国は少なく、集塵機を輸入しても、満足に運転が出来ないのが現状である。
 戦後には海外の進んだ電気集塵機を輸入し運転、保全し、この経験は戦後の環境対策に役立っている。
 また、洞岡第二高炉用のコークス炉にドライクエンチを試みたが、まだ、装置製作に溶接技術を用いなかったため、気密上の問題で大爆発をおこし失敗し、計画は途絶えたが当時の技術者の意気込みがうかがわれる。

その2 施工技術
 施工に就いても高い水準の技術技能を持ち、例えば、1916年に発電用の高炉ガスを燃料とする3,000KWのガスエンジンを作っているが設計は三池製作所が担当し、主要部品、例えば、重量の大きいフレーム減速歯車は工作で、クランクシヤフトは日本製鋼所、ピストンロッドは呉海軍工厰で手分けして作り、据え付け用の40トン起重機は工作で設計、施工し、各所から集められた主要部品を現場で組み立てるだけの能力をもっていた。
 製鉄所では1928年に電気溶接を長崎造船所から導入したが、直ちに、絞鋲構造で設計した油タンクの建造に、溶接を適用した。
 1932年に火入れした洞岡の二高炉の建設からは、大径の配管、熱風炉の外板等には大胆に溶接構造を用いた。1935年に遠賀川からの原水取水工事の大径の水道管工事には従来の鋳鉄管の代わりに溶接鋼管を用い、当時、国内で造船を除き、電気溶接を最も利用する工場であった。
 戦前には、重要な設備は輸入に依存していたが、特に職人の高いスキルがあったから、据付や修理には何も問題もなかった。例えば、送風用の大型ガスエンジンは4シリンダータンデム構造で分解、組立てが難しいが、天井起重機の運転のスキルと仕上工のスキルで分解、組立てをしている。又、化学工場の高速回転のブロアーの増速ギアを、ダイナミックバランシングマシンなしでバランス取りが出来るスキルを持っていた。
 故障修理に対しても優れた技術、技能をもっていた。送風用のガスエンジンのピストンロッドが疲労破壊で破断し、エアシリンダーをバラバラに破損した際にも、当時、まだ、工作工場の職工であり、後に黒木工業所を興した黒木が自ら考えた鋳鉄の溶接法で修理し、ピストンロッドの代品を製作する場合にも、鋼塊を鍛造後、疲労破壊を防ぐための応力除去焼鈍を炭火で包んで行った後、機械仕上時には応力集中を避ける為、入念な機械仕上げをし、到底、今日の途上国では成しえない作業をしている。

第4章 日本製鉄時代

第1節 官営から民営へ
 1934年、第一次世界大戦後の好況期に設立された民間の数製鉄会社は昭和の大不 況で経営状態が悪くなり、近くには一部、製鉄所が委託経営をしているものもあった。
 これらの民間製鉄所の救済目的で官営製鉄所とこれらの会社を合併した半官半民の日本製鉄(株)が設立された。
 民営に移行してからも製鉄所はまだ、封建色が強く、当時でも、高等官食堂、判任官食堂という名が残っており、課長は威厳があって近ずき難く、又、職員、職工という階級があり、職工は職員には絶対服従であった。
 民営になって組織、制度は民間風に変えられたが、縦割り管理は変わらず、工程間の連絡は悪く、何事にも官営色が極めて濃く、戦後に三木所長が「前垂れ掛け」精神を吹き込まねばならない状態であった。

第2節 戦前の製鉄所の経営管理と文化

その1 権力的管理
 戦前の製鉄所の管理は権力に基づく管理で、仕事を与える場合にも、現在、多くの社会主義国にみられるように、目的を知らせずただ命じられた通りに実行するのが一般で、当時の行政の通念は「知らしむべからず、拠らしむべし」であった。
 製鉄所で、かつて新しい製鋼工場の建設主任で、もと所長であった角野氏に計画の目的を聞いたとき、「主任位では目的等は全く聞かされて居らず、命じられた通りに仕事をするだけ」との回答であり、他の先輩からも同様な回答を得た。
 戦後、占領軍が指摘した管理の問題点は権力管理に対するものが多い。

その2 生産技術と文化
 創業当時、製鉄所では、ドイツ人をコンサルタントでなく、ラインの管理者、監督者として雇い創業期の人材不足に対処したが、技師長もドイツ人であったため、文化習慣、物の考え方の違いが大きいのが原因で、人間関係の問題を生じ、遂に、技師長を辞めさせたという経緯があった。
 経済性を追求する生産技術は人間が係わる関係で必ずその国の文化、経済状態等が基本にあるが工業は英国で始まり、欧米に移り、20世紀になって米国で発展しており、その基本は西欧のキリスト教精神、即ち、個人主義である。管理組織は個人が責任を果たすことで成り立っている。又、工業では多くの経営資源を有効に使うため、組織的、分析的な欧米文化が必要であるが、これらは従来の日本文化にはなかった。
 文化の問題等もあってか、東洋では工業は発展しないと考えられており、日本の戦前の工業発展は東洋では例外と見られていた。その背後には日本人には文化、思想を柔軟に受け入れる容量があり、又、戦後に見られるように、米国式管理を日本式管理に適正化する能力があったこと、労働を貴ぶことに基づく従業員の勤勉さや日本人の器用さも当時の設備を個人の力で使いこなすのに役立ったと考えられる。
 戦後、米国が日本の企業経営の問題点を指摘したが、製鉄所も指摘どうりで、それなるが故に経営成果は上がらなかった。しかし、個人が優れた能力を持つ我が国では、今日の途上国と異なり、管理組織、制度を導入すればすぐ機能して、戦後の経済成長をとげるのに役立った。

その3 日本人と分析的手法
 米国では100年前にテーラーが科学的管理法という分析的手法を用いているのに比べて我が国では文化的な問題から戦前には分析的手法は受入れが困難であった。
 1939年に製鉄所で始めて管理に関するセミナーがありこれに参加したが、セミナーは作業研究と呼ばれ(現在のIE)、製鉄所の管理課効率掛が主催で日本能率協会の堀込建一講師を招いて行われた。堀込氏は既に、鉄道省で作業研究を指導し、機関車の年間修繕を効率化することに成功していた。
 このセミナーは2週間でタイムスタデイ、モーションスタデイの講義と現場実習からなるものであったが、講師の最初の「考える無駄」を示すデモンストレーションが極めて巧みであった。セミナーを受けた後、現場に出ると色々の無駄が見えるようになったことに驚いた記憶がある。
 このセミナーは個人の能力向上に大いに役立ったが、当時の製鉄所ではまだ、このような分析的手法を受け入れる文化が未成熟で、結局、このセミナーは一回限りで、翌年からは行われなかった。しかし、二三人のIEスタッフが効率課に育ち、戦時中の未熟練工に対する作業教典(標準作業)作りにIE手法が役立っている。
 この二三人のスタッフのお陰で戦後間もなく、標準作業による作業合理化で要員を捻出する定員査定を行うことができた。
 IEが組織的に適用されたのは戦後、日本生産性本部の調査団が米国企業を訪問し米国の高い生産性がIEによるものであることを報告し、IEの有効性の認識、管理に対する関心が高まり、改善という日本文化に支えられて、各社でIEを受入れ、活用している。

その4 西欧的管理
 西欧の管理組織は、個人の業務を明確にし、与えられた業務に責任を持つ事が基本になっている。即ち、方法は西欧人の得意とする分析能力で標準化、マニュアル化され、スーパーバイズで個人が正しく仕事を進められるようになっている。
 欧米では、仕事に適材を配置するのに対して、わが国では、人に仕事を割り当てる方法である。その一原因は、業務分析、能力分析よりも、感覚的な判断が先行することにある。その結果、個人の責任が不明確になり、グループで責任を持つ考え方が一般である。
 又、分析が得意でないため、標準化、マニュアル化が進んでいなかったし、現在でも日本企業が合弁事業を行う場合、マニュアル類が欧米企業にくらべ少なく、日本企業が技術を隠している疑いを持たれる場合が多い。
 しかし、我が国にも高い見識を持った人もいた。戦時中の小平特殊鋼部長のように「現在の製鉄所では、優れたA技術者が居るあいだはA技術者のレベルで作業が行われるが、Aが退職すると技術レベルがBの低いレベルに下がってまう。Aが辞めれば次の技術者はAのレベルより若干でもレベルを高めねばならない。これには現状の作業を標準化して、これを基準に次の人は作業改善を加えなければならない」という今日の技術の共有化の主張である。
 部長は各掛長に標準作業を提出させ、部長の承認を受けた後、この標準で作業を行うよう指示した。電気炉の操業標準の形式は現在でも用いられている。
 組織にしても、戦時中、谷技師長がライン−スタッフ組織の必要性を唱えたが結局誰も関心を示さなかった。要するに、戦前は東洋的感覚から、分析的手法や組織活動を受け入れる基盤が弱かった。

第5章 計画経済と生産管理

 官営時代の製鉄所は軍需材を作るため、基本的には統制(計画)経済であった。運営は現在の中国の国有企業に近く、主要人事や、資金計画、生産基本計画は政府の意向によるが、必要な経営管理機能は製鉄所に任されていた。
 しかし、計画経済の性格上、製造者の便宜に基づく生産方式で、例えば、製品は標準寸法で需要家は材料寸法に合わせて設計をした。
 生産計画は本社から月別、品種別の生産指示が所長付の主任に送られ、主任が各部に通知するだけで、納期に応じて鋼片を選んで製品を圧延する方式であった。
 出鋼した鋼は一応、分塊して鋼片にしておき、使用した鋼片を補給する生産であり、出鋼時にはこの鋼が何処に納入されるかは決めておく必要がなかった。要するに管理しないでもよい不経済な仕事の仕方であった。
 入社時のオリエンテーションの際も、当時の島村効率掛長が「原料は13時間で銑鉄になるが、これが製鉄所を出るまでに1年かかる」という嘆きの説明を受けたが如何に在庫が多かったかがわかる。又、戦時体制下では鉱石も危機管理から義務貯鉱制で経済より国策が優先していた。又、当時は量のみが生産の価値で、品質、原価に対する価値感はなかった。生産量の管理のため、各生産部門は毎日、新聞紙一ページ大の複写形式の日報フォーマットに実績を記入、本事務所に報告することになっており、毎日、実績を報告するが誰も見ず、ただ機械的にとじて保存するだけであった。
 安全管理についても製鉄所では人的災害が多いので、早くから安全課が組織され、幹部に関心はあったが、現場では毎月、安全委員会を開くが、委員会は甚だ不活発で、安全課に提出するネタがなく、数カ月前の報告をそのまま繰り返し提出する状態で、重大災害(死亡災害)を出さねばよいという感覚で原価、品質同様、現場では災害防止には関心が薄かった。
 原価については、戦時中は軍需品には軍需省の指令で個別原価計算を行っていたが、これは、販売価格決定の目的で行い、原価切り下げという考えはなかった。
 昭和の始めの不況期に製鉄所は経営改善目的で「防損運動」をはじめたが、これも組織的に原価逓減をはかるのではなく、個人のアイデイアにたよる方法であるので、発明、考案マニアによる提案が多かった。
 作業用の資材を選ぶ場合にも価格は念頭になく、品質がよければよいと言う考えかたであった。私自身の経験でも、ある時、同業の人から作業用の滲炭剤はどのブランドを使っているかとの質問があり、「GTを使っている」と返答すると「それはいいが高いでしょう」という全く予期しない質問があり、頗る奇異に感じたことを未だに覚えている。
 一般の民間企業ではこのように原価意識があったと考えれるが、製鉄所では薄かった。戦時中には時々、省エネルギーが叫ばれたがこれも、原価の問題でなく、燃料不足に対処する目的のものであった。
 鋼材の品質に就いては、検定課で製品の特性を分析や機械試験で確認するため、創業当初から大規模な立派な機械試験設備や化学分析設備を備えていたがこれは不良品を所外に出さない為で、品質を向上させ不良品を減少させるという考え方はなかった。
 戦時中の鋼材は品質規格は緩く、品質のバラツキも大きく、製鋼過程では狙った成分に納まらず、大半は分析結果をみて規格に当てはめ、該当しない成分は当時、種々の用途に用いられた無規格材にあてることですべてが不良品にならずに処理出来た。戦後でも、狙った成分範囲にはいったチャージを「目的一級」と称していた期間はかなり長かった。
 1943年から航空機材が増加し、従来の少品種生産に比べて極めて材料規格が細別された多品種生産になったため、従来の半製品在庫管理方式では、異材混入というクレームが急に増加し、漸く、生産管理組織がつくられた。

第6章 戦後の管理導入

第1節 敗戦と省エネルギー
 日本は米軍に占領され、日本を農業国にする占領政策で日本の将来の鉄鋼年間生産量は150万トンという低い水準が示されており、且つ、甚だしい食料不足から多くの従業員は将来性がない製鉄所に見切りをつけ、田舎に帰って農業に従事したり、又、中には闇商売を始める人もいた。
 このような混乱した社会の中で商工省の製鉄課から、少ないとはいえ、日本の貴重な石炭資源節約のために熱勘定(熱精算)を研究してはというアドバイスがあり、八幡製鉄所では設楽熱管理掛長が戦時中から手掛けていた研究結果に基づいて敗戦の年の10月、各生産現場をまわり加熱設備の熱勘定の手ほどき、現場測定、指導をはじめた。
 本人の熱意や製鉄所のこの活動に対する支援があったとはいえ、当時の従業員の食料不足の生活事情を考えると、省エネルギー活動が進められた事が不思議に思えてならない。当時はまだ製鉄所の炉は総てマニュアル操業で、炉の燃焼状態をよくするため、炉のダンパーを満開して操炉するのが通常であったが、その後、米国から技術指導に派遣されたU.S.スチールのヘイス博士は、「マイナスの炉内圧操炉方法は間違っている、プラス圧力操業にすべきである」と指摘し、各炉にガラス管のマノメーターをつけマノメーターを見ながら炉内圧がプラス2乃至3ミリの正圧操炉になるよう、手動でダンパーを制御することを指導した。
 この成果は大きく、熱勘定に基づく改善とあいまって50%の燃料節約が出来た圧延工場の炉もあった。僅かな無知が大きい損害を招いていた例である。
 この時期に、多くの技術者が熱精算を学んだことがその後の省エネルギーを推進するのに役立ったと考えられる。しかし、現在、途上国の古い炉、ボイラーは殆ど自動燃料制御がなく、我が国の当時と同じ状態で、省エネルギー意識も薄い。
 平炉に就いても、1952年当時、米国の燃料原単位が80万Kcal/Tであるのに対して製鉄所は150万Kcalであった。これも、相原課長の努力で従業員に省エネルギー意識を持たせ、又、バーナーを度々改造し、熱損失を防ぐ操業上の細かい注意、酸素の使用等の綜合成果として数年で米国を上廻る成果をあげている。

第2節 占領政策の変更と米国の技術協力
 1947年からの冷戦開始とともに、米国は日本を工業国にする方針をとり、1948年頃から日本の工業を支援するため、前記、ヘイス博士もその一人であるが、種々の分野の専門家が派遣され、日常管理の指導をした。
 安全の専門家は我々に安全意識を持たせる指導、たとえば、当時、腐れたトタンの壁板が方々でぶら下がっていたが、此れに対して、何故ちぎらないのか、危ないじゃないかとかバールが壁にたてかけてあると倒れると怪我をするおそれがあるので倒しておけという類の不安全状態を指摘した。いわれてみれば当然の事であるが、多分、怪我はしないだろうという考えで放任していた事である。
 鋳物工場でも、鋳込み前の砂型の清掃の必要性は分かっているが、多分、欠陥に繋がらないだろうという事で当然の事が実行されていなかった。問題が起きる可能性がある事はすべて、取り除くという管理の基本を学んだ。
 米国の指導は現場技術的な内容の指導、例えば、ストリップミルの圧延方法の具体的な指導の他、上記のような管理的な問題が多かった。
 製鋼工場での指導でも、「日本の技術者はよく知っているが現場ではこれが実行されていない」という管理不在の指摘が聞かれた。
 途上国の研修員の中には、知識を豊かにすることで満足している人が多いが、前記のような、些細であるが管理の基本である重要な問題を疎かにするのが通例であり、その結果、災害頻発、高率の不良品の発生という結果になっている。途上国の多くの問題は決して、高級な理論の不足に起因した結果ではない。
 当時の日本では、情報は私有化され、今日のような、標準類はなく、又、作業員の躾けもなく、工場内には安全通路さえ明確でないところがあり、床には物が散らかっており、工場内は見られた状態ではなかった。
 数年前にJICAの研修に参加したブラジルの大企業の部長が、研修を通じて、「戦後、何故日本経済が発展したかを自ら確かめたい」といっていたが、帰りに「この研修で習った事は殆ど自分は知っていた。日本との違いは日本では実行しているが、ブラジルでは実行していないだけである」との感想をのべた事にも途上国の現状がうかがわれる。

第3節 米軍の管理の指導
 占領軍自身も日本の通信システムのお粗末さに悩まされ、原因を調査した結果、日本企業の管理が悪い事を見いだし、問題点を指摘するとともに、民間情報局が1948年通信機メーカのトップマネジメントセミナーを開くとともに、一般の企業むけに1950年にはTWIや極東空軍による監督者訓練計画(現在のMTP)を導入した。恐らく米国は第一線管理者の能力が管理の重要な点である事を知っていて、これらを導入したのであろう。
 米国の途上国協力は何れも米国式に個人差が出ないようにマニュアル通りに教えるのが特徴であった。日本人はマニュアル化が下手なため、技術協力時に人によって違う事を教えるという批判が時に聞かれたが、当時、日本人はこのようなマニュアル通りに行う習慣になれないため、「猿芝居」と冷やかにみる人もあった。
 極東空軍が導入したMTP(マネジメントレーニングプログラム)は40時間(2時間20回)で管理の概念を与えるものであったが、このセミナーを実施するには、始め日本人インストラクター候補に英語で参加させ、このインストラクターが日本語でセミナーを開き、次第にインストラクターを増してゆく方法で、立派な標準書を作り、これを母国語で広めて行く方法は途上国協力に効果的な方法である。
 MTP訓練は民主的管理を教えるもので、方法は、一方的な講義方式でなく会議で意見交換して思想統一をはかるのが特徴である。明治の始めに民主主義を導入して会議を開いても、封建社会では議論をかわす事が出来なかったように、戦前には生産現場で会議を開いても、討論する習慣がなく、結局、一方的な指示に終わる事が多く、その結果、会議は余り意味がなく、従業員のモラールはあがらなかった。
 八幡製鉄所ではMTPを課長から始め、掛長、その後、作業長クラスに及ぼし、2千人近い人がこの訓練を受けている。その結果、後にライン−スタッフ組織を採用したとき管理者、監督者が管理に対する共通の認識を持ったことが、新組織を運営する上で大いに役立った。

第4節 当時の管理状態
 当時の生産現場では、一般に管理という言葉は知っていても、管理の目的、管理の機能、管理の重要性が分からず、又、体系立った管理がなかった。特に、管理の出発点である計画の重要性を理解しておらず、計画を作るのに必要な精度の高い共用のデータがなく、個人の能力で計画を作り、その結果、計画精度が低かった。一例として、1957年・急を要する設備移設の打ち合わせの席上、半日単位の計画を作ったが、技師長から「このような緊急工事には分単位の計画が必要であるが、せめて、時間単位の計画を作りなさい」と指示された。しかし、作業を時間単位で計画する経験も力もないことから、結局、多少全体の時間を適当に減らし、時間単位で割り振った計画表を作ってお茶をにごした。
 時間単位の日程表が出来るのには可成りな時間を要した。
 また、作業毎に予算を作る習慣もなかった。いずれの計画も個人差が大きく、作業方法はいわゆる職人任せで標準化されて居らず、監督者には監督能力がなく、仕事はやりっ放しで結果を検討する習慣もなかった。さらに、従業員の躾けが悪く、規則を守られず、管理された状態とは程遠かった。
 時間にも甚だルーズで、1950年頃は製鉄所で毎週開かれる幹部会でも通例、15分位の遅れがあった。ある時、所長が定刻に着席、皆が集まるのを待っていたが、それ以来、どの会議も次第に定刻に行われるようになった。
 現場作業も朝晩、20分くらいの無駄時間があり、今考えるとその損失は莫大なものであった。ある大学教授が1957年頃、米国に留学し、教授会に日本流に遅れて出席したところ、主任教授以下、皆が待っていたので非常に恥ずかしかったいう事を雑誌に記されているのを読んだが、現在、途上国ではまだ、時間の損失という観念がうすく、研修時に時間の大切さを教える事も大いに意義があることである。

第5節 米国の現場管理の特徴
 戦後の米国では、国民能力の平均水準は日本に比べて、可なり低かったと考えれるが少数のすぐれたスタッフの技術者の能力は日本人の比でなく、まさに「10%の気違い」が米国を動かしていたという事である。即ち、優れたスタッフが立派な作業標準を作り高い能力の作業長が標準を守らせることで能力の低い作業者に正しい作業をさせ、能率給で刺激し高い生産性をあげる事ができた。当時の米国の作業長は、「部下に標準を守らせる」のが責任で、日本のように計画を作る事は許されていなかった。
 米国の作業長の高い能力を持っていた例として、米国で偶然、工場見学中、電気メッキラインの故障が起きたが、このようなエマージェンシーには作業長が一人で迅速に処理しており、日本の役付工とは大違いであった。
 又、当時、平炉の大修繕は日本では一週間以上に対して、米国は四日半の修理工程であったのでこの工程を質問した所、何も見ずに作業工程を分解して何時から始まって何時に終わるというように説明をし、これをチャートにするとピッタリ合うのに驚いた。
 我が国の戦後は現場監督者に能力がなく、技術者には米国のように作業標準を作る能力もなかったが、作業者個人が可なり高い水準であったので、無監督状態で能率はよくないが何とか仕事はできていた。しかし、途上国では、作業者個人の能力も低く、監督能力もないので、極めて非能率な作業を行なう結果になっている。途上国では、まづ、監督者を育てることから始めるべきである。

第6節 品質管理の導入と管理意識
 米国の統計的品質管理は1926年にウェスタンエレクトリックのホーソン工場ではじめられ、我が国には管理の導入の一貫として1950年に、デミング博士が統計的品質管理を導入し、大量生産をする大企業では品質管理組織を設け、スタッフ主導でデータを蒐集する品質管理がはじまり、それなりの成果をあげた。
 1952年には八幡製鉄所は管理強化のため、それぞれ品質、原価、生産量を管理する第一、第二、第三の三部で構成された管理局(スタッフ部門)を新設した。
 しかし、当時はスタッフというものの理解がなかったため、ドイツの観察員制度(スタッフ)をみた人が観察員が管理をしていると誤解したものか、「第三者管理」という現在では理解に苦しむ言葉が用いられ、その結果、製造部門の責任者は、自分の責任は生産量だけと誤解して品質は品質スタッフ、原価は原価スタッフが責任を持っているという誤った認識を持った。
 1952年からの監督者訓練を通じて次第にライン、スタッフの責任・権限が理解できるようになったが、正しくスタッフの機能が理解されるまでには時間がかかった。
 現在、多くの途上国で未だ、ライン−スタッフ組織をとりながら、両者の責任、権限の理解がないのが殆どであり、これが原因で製造部門の管理者が品質、原価等を人任せにする結果になっているのをよく見受ける。
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