KITAわが国の工業化のあゆみと国際技術協力の問題点(その2)
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わが国の工業化のあゆみと国際技術協力の問題点(その2)
2000年3月
(財)北九州国際技術協力協会
清水 泰
目次(その2)
第6章  戦後の管理導入
第7節  日米の管理方式
第8節  米国の管理水準
第9節  朝鮮戦争特需と品質管理
第7章  製鉄所の合理化
第1節  機械予備品の製作の外注化
第2節  部品の材質改善
第3節  その他の補助経営部門の合理化
第8章  労働組合結成と民主化の進展
第9章  予防保全や非破壊検査の導入
第10章  米国技術の導入と人材能力
第11章  コンピュ−タ−の導入と企業の技術
第12章  作業の請負化
第13章  高生産性と初期の環境汚染問題
第14章  公害問題と公害対策
第15章  戦後の管理者、監督者の能力開発
第16章  終わりに −環境国際協力は如何にあるべきか−
本文(第6章 第7節〜)
 当時は安全についても同様で、怪我人をだしても安全課の責任と心得ている人が多く1948年にある掛長から「今日、組長が怪我人を出したといってことわりに来た」といって報告する位、当時は一般の役付き工レベルの安全意識は低かった。
 生産部門の管理者が自らの責任を正しく認識し、これが具体的に現れたのは1960年頃でこの時期から戸畑地区での月例の原価報告を原価部門に変わって生産部門の責任 者が行うようになった。
 1963年には、定例の原価会議の席上、あるメッキ工場長から、計画された亜鉛原単位に対して、「このような方法改善で原単位を何グラム下げたい」という自ら目標を高めて挑戦するような管理者が見られるようになった。

第7節 日米の管理方式

 米国の管理は個人主義が前提で、例えば、管理組織は目的達成の為に仕事を分業し、各仕事を個人が責任を持つ事で成り立っている。個人の職務(ジョッブ)と賃金が見合っており、企業ではある職務遂行能力がある人を見いだし契約して定められた賃金を払う方式である。
  しかし、我が国は年功序列賃金で、職務と賃金は必ずしも強い結びつきがないため、例えば、TPM(Total Productive Maintenance) を導入し、運転員が日常保全を受け持っても賃金は変わらない。しかし、欧米流に考えると、余分な仕事をする場合、賃金は当然あげなければならない。わが国では欧米方式はそのままでは適用できないと同時に我が国の方式がすぐ他の国に適用できるわけでない。
  戦後、個人が自分の職務に責任をもつ米国では、事務所内の机の配列を学校の教室方式にし、管理者が最後列にいる形式をとっているのを見て、これをまねた所があったが、個人主義でない我が国ではうまく運営出来ず、又、もとに戻した例があったが、基本を理解せず形式だけをみた結果である。
  又、工業を進めるには、文化を変えることも必要で、米国の管理セミナ−等も日本の職場文化を変えるのに役立ったと考えられ、その結果、工業が戦前とは全く違った発展をしたのであろう。

第8節 米国の管理水準

 工業が欧州から米国に広がった段階で、前記のように米国では既に100年前、1900年に、テーラーが科学的管理を提唱し、分析的手法で個人の作業方法と時間の標準を定め、これを強いスーパーバイズの力で実行させ、能率給制で個人の能率を高めることに成功した。その後1920年頃のフオード方式はテーラー方式を基本に3S(専門化・標準化・単純化)で自動車の組み立て作業を効率化し、自動車の大衆化に成功した。
  更に、1930年頃のウエスタンエレクトリックのホーソン実験で、人を動機づけるのは金だけでなく、心理的な面が大いにかかわっており、管理者の能力が問われる事が分かり産業心理学が発展し、戦前、既に高い工業水準を保っていた。
  このように、米国では生産管理制度が進んでおり、ドイツのようにマイスターに依存していたのとは異なり、組織的な管理で大量生産する場合には、欧州と大きい格差があった。
  戦後、欧州では米国の高い経営管理水準を知って驚いたと言われている。
  戦前、体系的な経営、管理が弱かった我が国では、被占領の結果、すぐれた米国のシステムが導入され、民主主義、米国文化を取り入れ、かつ、日本人の優れた能力に基づいて、米国方式を日本流に適正化して活用した。又、管理が徹底するにつれ全員の管理 意識が強くなり全員参加で物づくり中心に経済発展をとげる大きい素地をつくった。
  当時の日本と異なり、今日では途上国でも管理システムに関する情報が多く、又、職業的なコンサルタントが管理制度を作ってくれるので制度は出来るが、管理に必要な人材不足、例えば、問題を発見する能力が低いため業務を改善するための管理システムが機能せず成果が上がらないのが大部分である。

第9節 朝鮮戦争特需と品質管理

  高い米国の工業水準を認識させられたのは1950年に始まる朝鮮戦争による特需であった。当時、日本はドッジ政策で極端なデフレ経済下にあり、各企業は冬眠状態であったが、特需で企業は息をふきかえし、高度成長の足掛かりをつくった。
  特需として、太平工業が受注した48インチの作戦用の橋梁、ビルトアップビームの製作は米軍の要求が厳しいため、太平工業では下請けの管理が出来ず、八幡製鉄所で下請けを指導する事になった。
  米軍の検査官、ブラックは「このビームは作戦用の橋梁であるため、どのビームをとっても自動車部品のように互換性がなけれならない」という思いもかけぬ説明をした。
  日本では当時、鉄骨加工品の現場組立は合いマークをうって現物合わせというのが常識であったが、この橋梁の場合、繋ぎ目に320くらいのボルト孔があり、互換性など全く考えられなかった。
  米国では既にマルチドリルで穿孔しており穿孔精度の点から互換性を求めるのは当然のことであった。検査官は日本の遅れた工作設備に対応するため穿孔ジグを使って穿孔するよう指示したので工作工場でジグを作り下請け業者に与えた。しかし、下請けにはジグの知識がないのでジグの使用方法を教えても守らず、検査官が怒って、ジグを溶接して穿孔させ、どうにか互換性のあるものが出来るようになった。
  ブラックは毎日、具体的な問題、例えば、絞鋲前に焼いた鋲をワイヤホイールで除錆させるとか、絞鋲作業前に圧力計をチェックせよといった品質管理をオンザジョブで指導をしたが、「自分は一日に一項目より注意しない」といっていた。
  ボルト、ナットも第一回の納入分はすべて不合格で、旋盤で全数首下の太い部分を加工し、ネジはネジゲージで検査するよう指示を受けたので早速、ネジゲージを購入してボルトを選別し漸く採用された。
  当時、米国では既に、7/8インチのボルトは冷間成形で日本のように精度が悪い熱間成形ボルトはなかった。
  また、橋梁の付属品であるハンマー、スパナーに至るまですべて、購入仕様書が付けられてハンマの面の硬度や、スパナには示されたトルクに対する柄の撓みの許容量が示されていた。当時、製鉄所では工具類を購入する時、「何社カタログ、何ページ同等品」という購入仕様の示しかたであったが、両者には雲泥の差があった。
  戦後の米国の指導は、我が国の設備が劣っている場合、現状設備でどうしてよい結果を上げるかを指導したのに対して、我が国の協力では「設備が悪いから駄目」という言い方をする場合があるが、ヘイス氏の指導といい、途上国協力に見習うべき点が多かった。

第7章 製鉄所の合理化

第1節 機械予備品の製作の外注化

  1948年になって1950年の日鐵解体が決定的になったので、それまで、計画経済下で成り行き経営を続けていた製鉄所も急いで合理化を迫られる事になり合理化が進められた。当時から、設備投資による生産の合理化をひそかに計画するとともに、特に補助経営部門の合理化が急を要する問題になった。
  製鉄所は百年前に産業のない寒村に突然作られたため、インフラ整備を含む補助経営部門、例えば工作、動力、土木、窯業、化学、輸送、学校、病院、図書館、売店等の外炭鉱、原料輸送の船舶部門のウエイトが製鉄事業部門に比し大きく、経営は補助経営部門までは手が廻らず、補助経営部門の生産性は低く、これが製鉄所の経営を悪くしていた。
  これは現在の中国の社会主義体制を守る目的の国営企業の単位主義とは目的が異なるが、結果的には同様であった。又、一般的に、中小企業が発達していない途上国でも大企業が自給自足体制をとっており、同様な状態である。
  我が国でも、中小企業が発展していなかったため例えば、自動車会社は部品は内製が殆どで、外注化に切り替えを始めたのは1955年頃からである。
  これらの補助部門を処分して、製鉄事業に徹する事を目的に1948年に、元製銑部長安田勇治氏を委員長とする、通称、安田委員会が出来、先ず、4千人ぐらいの従業員をかかえ、製鉄所の高い経費で中小企業的な作業をしている工作部門の非効率な予備品製作の外注化が取り上げられた。しかし、製鉄所が直営作業で部品製作を行っていたため、当時、地域には、中小企業は少数の安川電機の機械加工の下請けぐらいで、部品メーカーは育って居らず、よい外注先もなかった。
  当時の合理化は補助経営部門の従業員を生産部門に配置転換する事が目的であるので労働組合の反撥は強く、管理者は会社の方針との間で非常な苦戦を余儀なくされた。
  外注は中小企業で製作可能な小物部品から次第に始められたが、中小企業には技術者が居らず、製鉄所を離職した技術者や技能者を雇って営業上の優位を得ようとする所が多かったが、当時、部品作りは職人任せであった為、製品品質は不安定であり、又、鋳 物用のコークス等の資材支給から技術指導や受け入れ検査業務に非常に手がかかった。
  製鉄所の購買部門では、外注先が、一部の工程を下請けすることは罪悪という誤った考えで、各企業が総ての部品製作工程を持つことを発注条件としたため、専門性を持つべき中小企業の特徴はなくなり、総合的に過剰設備を持ち、人材不足でコストは高く、下請け自身も大変苦労をした。

第2節 部品の材質改善

  一方、社内では、小平研究所長は、戦時中に機械部品材質が悪かったため、大きい設 備の事故が発生した経験から、戦時中の熱処理技術を生かして部品の長寿命化を目指すため、技術研究所に材質改善委員会を組織して短寿命部品の寿命延長をはかるよう指示した。
  現在、途上国では部品品質が低いことに悩まされているが、部品の寿命延長は保全の成果を高める極めて効果的な方法である。
  部品の材質改善活動は、時には失敗もあったが結果が非常によく、各工場から喜ばれた。
  途上国では技術者、技能者の能力不足から、良品質の国産部品が入手できず、これが設備保全の大きい隘路になっているが、途上国ではまだ、当時の日本の状態と余りかわりはなく、部品の材質を選び、又熱処理する習慣はないので、途上国の部品の国産化は日本とは比較にならない困難さがあろう。製鉄所でも、戦後、部品の外注方針をとって約20年で良い品質の部品が入手できるようになったが、途上国では、図面、発注仕様書を作る力もなく、国内の製造者がよい部品を作る能力もないため、部品を輸入に依存している。
  しかし、部品の輸入は外貨、価格、納期の点で大きい問題がある。如何にして部品を国産化するかは単に設備を整備するだけの問題でなく、人材を育てねばならないだけに長期間を要する問題で、人材をどのように育成してゆくかを計画的に進める事が必要である。

第3節 その他の補助経営部門の合理化

 その他の補助部門は日鐵解体で船舶部門は日鐵汽船に、炭鉱は分離したが、化学部門は新日鉄化学、黒崎窯業、共同火力その他分離して新会社を設立、又、請負化、外部からの購入で補助経営部門は極小になり、製鉄所は合理化された。特に、化学部門は内部組織の時は設備投資も少なく、技術的に立ち遅れていたが、独立することで設備、技術ともに面目を一新した。
  1963年の工作本部の発足も、長い機械修繕部門としての技術蓄積を持つ工作部門を機械事業に向かわせる事を目的とする合理化であったが、製鉄プラントは化学プラントと異なって、操業ノウハウが多いため、化学のエンジニアリング企業のように他社のプロセスを買ってエンジニアリング業務を運営する事が難しく、それなるが故に、製鉄部門とタイアップして、高炉、メッキラインや薄板処理ラインのような独自の鉄の処理のノウハウに基づいた特徴のある機械設備を開発する部門に発展した。

第8章 労働組合結成と民主化の進展

 占領政策の一環として労働組合が組織され、組合の強い身分制の廃止の要求で従来の封建的な職員と職工という階級が取り払われた。
 又、1950年から管理組織も従来のライン組織から、ライン−スタッフ組織に改められ、縦割り管理の弊害が次第に取り除かれ、且つ、作業の標準化やデータの蓄積による資料の共有化と、民主的管理で初めて考えられる管理者の部下育成の責任が強調され、戦前にはなかった On-the-Job の指導が行われるようになり高い水準にあった人材能力が一層高まって生産効力が高まっていった。
 戦前に部下を育てる習慣が無かったのは、当時の管理者は部下を権力でおさえようとするので、部下能力を高める事は権力を下げる結果になるため、部下を強くする事を望まなかった事が原因であると考えられる。
 戦後には、民主主義が導入され、権力的管理から民主的管理に変わったことのほか、合理化のため、作業の標準化がすすめられ、自ずから、効率的な作業方法を教える事になったこと、又、標準化、コンピュータ管理のための企業のデータ蓄積が不可欠になり技術が共有されるようになった。

第9章 予防保全や非破壊検査の導入

 現在、途上国では予防保全の重要性を認識していても、熟練した管理者、技術者、技能者が不足しているので制度を作っても殆ど機能していない。
 その結果、設備の稼働率の予測がたたず、生産計画を立てても基本になる設備稼働率が保障できないので生産計画は形式になっている。
我が国では1950年に米国の好意で小平八幡製鉄所技師長が団長となって米国の鉄鋼業の調査に赴いたとき、彼我の設備水準の大きい格差に驚き、現状の製鉄所の専門家もいない設備管理ではたとえ新鋭設備を導入しても円滑に運転が出来ないことを指摘している。
 1951年、設備購入目的で渡米した浅村工作部長が米国のメーカーから、予防保全を導入すれば予備機を持つ必要がなく設備投資が節減できる事を勧められている。
 その結果、工作、動力、土木の3部長を中心に保全方法を検討する会議が開かれたが、当時、まだ情報も少なく、名案も出ず、とりあえず設備の点検をするという事位で終わった。
 しかし、予防保全に対する幹部の意向は強く、工作部門としても、従来、作業の中核である部品製作が外注化されると、保全を担当しないかぎり、修理だけでは補助部門として処理されるだけに、従業員の危機感もあり、保全を工作に任せれば従来の生産部門で実施していた仕事を70%の人員で予防保全が出来ることをうたい文句にし、予防保全の導入を提案したため、人員が欲しい管理局には工作部門の提案は極めて魅力的で、予防保全導入の支持は強かった。しかし、生産部門は他人に保全を任せるのは不便であるとの主張で強く反対したが、予防保全の必要性を認識する幹部は予防保全を採用するよう命令した。
 予防保全の僅かな情報をたよりに、予防保全制度を検討し、グリナワルト方式の戸畑焼結工場から予防保全の試験台になる事の承諾を得て、1952年の10月から予防保全制度を同工場で試行する事になった。
 しかし、点検作業は全く無経験で、手さぐりで標準を作って試行したところ、一日分の点検に2日位かかる始末で、試行錯誤で時間をかけ標準を改善するより方法がなかった。
 この工場の主要設備は大型のブロアーで、しばしば、突発故障があったが、問題が簡単であるだけに、すぐ成果があがり、その後、各工場の予防保全への切り替えが促進された。
 しかし、たとえ幹部がその気でも生産部門の反抗はつよく、決して予防保全は円滑に進められなかった。途上国では一般的に幹部が予防保全に認識がない場合が多く、いくら、下部ではたらきかけても予防保全は成功しない。
 生産部門の賛成が得られず発足した保全は、2、3年間は問題が多発したが、漸く、予防保全の成果を認めるようになり、その後の戸畑の新一貫プラント計画では保全部を設けることを提案の一つにするようになった。
 戦後、所謂、重い鉄から軽い鉄に転換する為の設備投資が大々的に行われた。これらの設備は生産管理とこれを支える保全で、高い稼働率を保ち、利益をあげることができた。
小平技師長も「製鉄所では省エネルギーと保全体制が出来たので経営は確立したようなもの」と、満足気に語った。
 1953年には非破壊検査が導入され、製品の品質保証や圧延ロ−ルの検査に活用され、後に設備保全に用いられた。
 当時、厚板製品は外観検査では把握出来ない二枚板と称する中心部の偏拆による欠陥が問題になっていたが、非破壊検査を製品検査に用いて、品質保証を売り物にする会社もあったが、結果的に鋼材の品質水準を高めるのに大いに貢献した。
 また、圧延ロールも、今まで内部欠陥が把握出来ず、突然破壊事故が起こっていたが、この検査のお蔭で品質が保証され、保全用の鋳鍛鋼部品の品質も格段の進歩をとげた。

第10章 米国技術の導入と人材能力

 戦後、米国の製鉄業の調査結果、日米間の製造技術はプロセス、設備両面で格差は大きく、格差を埋めるため多くの製造プロセスを米国から導入した。
 米国のアームコ製鉄との連続亜鉛メッキの技術提携が初めてであったが、多くの技術導入は特許、設備とセットになっており、特に、我が国の設備には当時、計装がなかったため、導入に当たって計装設計等の技術的な面で苦労したが、間もなく技術を身につけ、その後の技術導入は順調に進んだ。
 しかし、何れの場合も、日本側が技術導入に必要な技術力を持っていたため、技術導入の範囲を狭める事や、レール圧延の技術のように、未完成の特許を買って、自ら、設備開発をして生産技術を確立するなど、小額で技術を導入する事ができた。
 途上国では、受入れ能力の問題から、導入に費用がかかり、導入技術で利益を上げるのが難しい。
 1950年に今まで、電気、水、ガス等に測定計器がないため、原価計算の基本になる物の管理も出来ず、使用量は割り当てで、原価管理も正確に出来なかった。このような状態であったので、管理部に計器の普及と、その修理を行う計器掛が出来た。
 1952年頃から、測定目的の計器整備から、システムを自動化する計装に方向がかわり、今まで立ち遅れていた我が国の加熱炉や圧延機の自動化が輸入技術ではじまった。
 今までの水銀スイッチによるオン−オフの温度制御から、当時、免税品であった電子管制御が用いられ、計装システムの普及に対応した計装管理課が組織され、操炉作業は従来の熟練依存でなく計器が製品品質や資材の歩留り、燃料原単位を確保する方向にむかった。
 例えば、熱管理という仕事も計装がない時は人間の意識に依存する点が多かったが計装化されると計装システムの機能を保っておけば、自ずから省エネルギーが出来るので設備保全が管理に大きい役割を持つ結果となった。
 自動化のための油圧制御システムの配管は1957年の熱延設備から急に用いられるようになり、システム配管の経験がない配管工任せでは工事が出来なかった。
 このように従来の生産部門は組長が力をもっていたが、転炉製鋼の導入、新設備、新技術導入の機会に職人任せの仕事の仕方から、次第に技術者が主導権を握る結果になった。
 1955年頃からは輸入設備の自動化が急に進み、運転は容易であるが保全が難しくなり、設備保全がよければ生産効率を上げうる時代になってきた。
 国内製鉄機械メ−カも、戦後、製鉄設備の輸入された設備を見て自らの設計で設備を納入したが、設備の発注に際して、ユーザーが秘密と称して、メーカーに操業状態も見せず必要情報も与えなかったため、メーカは設備の操業条件を理解せずに設計したため、思いがけない大きい設計上の問題が起こり、設計変更に長期間を要し、メーカーのみならずユーザの被害も大きかった。如何に、設備使用の知識が設計に必要かがわかった。
 その後、国内の各製鉄機械メーカーが米、独のメーカーと技術提携し、機械設計のノウハウ、どのような例外作業があるか、を学んだたため、比較的短期間に国内メーカーの水準が外国を上回るようになり、その結果、保全部品も殆ど国内調達でき、設備の信頼性、保全性が共に高まって、メンテナンスも容易になった。
 我が国は、占領によって、優れた米国の管理、技術方式を導入する結果になったが、米国のスタッフ主導の品質管理方式に対して、石川博士が我が国には米国とは異なって、自ら品質管理できる優れた作業者がいることから、QCサークルを提唱し、サークル活動に必要なデーターを解析するためのQCの七つ道具をつくった。その結果、作業者自身が原因を探究して高品質の製品を作る日本的な現場中心の品質管理システムを作ったことは忘れる事は出来ない。
 我が国の現場主義の強さは、戦後のアームコとの技術提携でも良くわかった。提携後、アームコの技術者がよく、「何故、金を払いながら質問をしないのか」といったが、現場経験があり問題解決に苦労している日本の技術者は、先方のノウハウを聞くだけですぐ、ノウハウが理解出来たため、一々、質問する必要がなかった。
 一方、英国に技術を提供した時、先方はダウンペイメントを払うとすぐ、テレックスで日本の技術者には馬鹿げたような質問を送って来たのに驚いた事を思いだす。
 英国の技術者は現場経験がないため、このような結果になったものと思っている。
 これらの事からも工業には現場経験が必要であるかが理解できるが、多くの国に此のようなよい習慣を取り入れる事は文化、社会情勢から容易でない。
 1985年頃、マレイシアの三菱自動車の合弁企業を訪問した時も、日本の技術者は、マレイシアの技術者に絶えず現場に出るように注意するがすぐ、事務所に帰って机に向かっていると嘆いていた。

第11章 コンピューターの導入と企業の技術

 1952年、八幡製鉄所で大型コンピュータを導入したが、当時技術情報は個人持ちで会社の情報はなく、コンピュータは給与計算にのみ用いられ、宝の持ち腐れであった。
 当時は、製鉄所の仕組みは、入社すると、各人の名札をうった机、椅子、書類箱が支給され、部署を変わるときはこの3点セットを持って移動するので、当然、個人の技術資料は個人と共に移動し、資料は会社に保管されない仕組みであった。
 1950年の八幡、富士両製鉄会社が設立され、両社が競争しはじめて鉄鋼界には市場経済が導入された。
 1957年に八幡に新厚板工場が建設されると今までとは比較にならない大きいサイズの厚板が出来るようになり、他社も厚板工場を建設したため、厚板の市場経済化がすすみ、造船所は船の設計図に合わせたサイズの厚板を発注するようになり、標準サイズの厚板販売からスケッチサイズ受注になった。従来の標準サイズの厚板では使用する鋼塊はきまっているので生産管理は簡単であった。これに対して、粗鋼対製品歩留りを最高にする生産計画、即ち、鋼塊にはじまる一貫工程の管理が始めて論じられた。
 しかし、受注した色々のサイズの厚板に対して受注を組み合わせて、最適鋼塊サイズを決める作業は人間では簡単に出来る仕事でないのでコンピュータに依存せざるを得ない状態になり、初めて、工程管理にコンピュータが用いられた。
 しかし、一般の技術データ、例えば、設備の生産能力、Ton/Hr.とか、歩留、原単位の信用出来るデータもなく、たとえ、コンピュータに入力しても結果は余り役に立たなかった。1957年頃、当時、日本鋼管にいたIEの大家、マンデル博士が来幡して幹部に講演をしたが、マンデル氏は、いい加減なデータでは、「電子計算機が電子嘘つきになる」と暗に八幡製鉄所のデータ不足が大きい問題点であることをほのめかした。
 この問題は1958年の戸畑製造所発足時に社長の指示で新管理方式を提案、承認され、スタッフ部門が強化された事でデータ蒐集が始められた。1965年頃にはコンピュータが技術問題に用いられるようになった。途上国では現在も個人持ち技術が多く、標準化は進まず、生産管理、知的財産の管理には程遠い状態である。

第12章 作業の請負化

 戦後の職業安定法で単純労働の請負化は難しかったが、設備保全は設備の規模、生産規模が次第に大きくなり、いきおい、保全作業のピークが大きくなる傾向から、八幡製鉄所も修理作業の請負化をせざるをえない状態であり、米国でも、石油精製のシャットダウンメンテナンスにCM(コントラクターメンテナンス)が行われるようになった。
 1958年に戸畑地区を一つの事業部門とする戸畑製造所が発足した。この部門の保全を担当する戸畑整備部でも一生産工場の規模が大きくなったため、直営施工では修理時の所要人員の変動が大きく、不経済になるため請負化を検討、提案したが反論も根強く、しかし、幹部の決意もあって1960年からこの方式に踏み切った。
 方法としては、日常点検結果で毎週、定期修理をおこなうが、一工場の修理を一業者に任せ各工場の修理曜日を決めて計画修繕を行なう方式であった。
 しかし、急に大きい仕事量を与えられた請負業者は素人工を沢山入れて修理に当たるので修理日は養成工の教育日のような状態であった。
 修理日の翌日は修理品質が悪いため頻繁に突発事故がおき、ついに、土曜日には修理をしないことにした。請負反対論者からはそれみよがしの声があり、惨憺たる状態であった。
 対策として、経営者との懇談や、未熟練者に対する軸受、パッキン、シール、潤滑等の基礎的な訓練をするなど大変な仕事であった。しかし、時間とともに改善され、一年位で問題は鎮静した。

第13章 高生産性と初期の環境汚染問題

 北九州の公害問題の始まりは日鐵化学のカーボンブラック工場の煤の周辺への飛散と、日本発送電(株)の中原発電所のフライアッシュの問題である。前者は被害区域が比較的せまく、工場を奥地に移転改善することで地域と妥協したが、後者は傾斜生産のお蔭で石炭が増産され、1949年頃から7基の発電機はフル稼働したが、周辺への降灰は激しく家庭では畳が何時もザラザラするほどであった。中原の婦人会は汚染状況を記録、調査し抗議した結果、発電所は電気集塵機を設置した。
 しかし、その後も電力会社は集塵機の運転費用節減のため、夜陰に乗じて、煤塵を流しているという噂が聞かれた。
 地域の人の環境意識が問題解決に如何に必要かを示すよい例となったが、これは民主主義の下で出来たことである。
 一方、製鉄所では1950年頃から平炉の生産性向上のため、熔銑の脱炭のため、従来の鉱石投入に変わって、先ず、米国から圧縮空気によるベッセマライジング、次いで、酸素吹き込み技術が導入され、炉のタップツータップ時間は8時間から4時間に半減したが、その結果七色の煙が出現した。しかし、平炉の煤塵は粒子が小さいため、発電所のフライアシュのような生活上の問題は少なく、一般に公害という認識よりむしろ工業化のシンボルという考え方が強かった。
 1953年ごろには、新酸洗ラインが稼働して始めて、古いラインの大修繕を行った。その時、設備を洗った酸排水を海面に流し、海面が赤変して漁民からの苦情を受け、また、新しく輸入した冷間圧延機が既存設備に比べて生産能力が大きいため、今まであまり問題にならなかった潤滑材、パーム油が海面に浮かぶ問題がとりあげられ、始めて公害問題の走りともいうべき問題が発生した。これらの問題に対処するため、酸排水から硫酸鉄をつくる事業を始め、又、パーム油除去設備を設計するため、技術研究所が、パーム油を浮上させるメカニズムを研究し、設計者が浮上したパーム油をスクレーパーで取り除く装置を設計し、不完全ながらパーム油の問題も納まった。
 その後、1959年に本格的な設備がこのノウハウを基に排水処理企業によって建設された。次第に環境問題化した平炉の大気汚染対策に努力し、試験的に湿式集塵機や電気集塵機を設置したが、平炉煙突間の距離が近く、集塵機を置く十分な余地がないところが多く、十分な対策にはならなかった。本格的な対策は塩基性転炉の導入による平炉の廃止であった。
 1952年、製鉄所では塩基性転炉の開発の情報を入手するとすぐ、このプロセスの性能確認のため、試験転炉を設け、鋼質、生産性の点で大きい利点があることを確認し、日本側との技術導入契約が出来た。
 このプロセスには激しい赤煙の発生がありその対策が不可欠であった。当時、オーストリーで集塵装置が開発された情報を得てこれを調査し、その結果設備一式を輸入して操業にはいった。
 しかし、この集塵方式は転炉の発生熱をボイラーで回収した後、処理するものであったため、管壁部の損傷が著しく、メンテナンスが極めて難しかった。しかし、その頃は動力部にボイラーの設計、建設、保全に対する人材をもっていたため、この悪いボイラーの運転を何とか続けることができた。
 この問題から、八幡製鉄所では1959年から試験転炉で集塵装置の実験を行い特許を取し、これをもとに外部のボイラーメーカと共同で独自の集塵装置、OGシステムを開発し、この成功で塩基性転炉は高効率に運転され、平炉を次第に廃止することができた。
 製鉄所の技術力が種々の環境対策に活用されているが、特に、環境問題の初期には高い水準をほこる化学分析技術が役立った。
 一例として、占領直後、製鉄所の社宅が占領軍に使用されたが、社宅は飲料水が自家水道であったため、占領軍から飲料水の分析を命じられた。今まで、飲料水を分析したことはなかったが、占領軍の要求する多くの分析要素はいずれも問題なく分析ができた。
 日本では地方自治体が古くから衛生研究所を持ち、化学分析力があった事が公害に対処するのに役立ったといわれるが、途上国でも化学分析技術を方々でもっているが、これが有効に環境対策に用いられなければならない。

第14章 公害問題と公害対策

 1965年頃からの他地域の汚染物質と公害病の関係が明確になるとともに、公害問題が国として急に大きく取り上げられ、製鉄所幹部は環境対策に強い関心を示し、1968年に公害対策委員会を組織し、翌年、総務部環境管理室が発足した。
 当地域では、政府が環境問題を取り上げる以前から、企業が早くから環境問題に対処しており、行政関係は1970年の公害国会、続いて、1971年の環境庁の発足、北九州市の公害対策局の新設等、行政関係の対応が始められた。
 しかし、企業が弱い途上国では、取り敢えずは行政官が指導力を持ち、企業を指導しうるように技術協力する事が先決である。
 八幡製鉄所では1970年の新日本製鐵の発足と共に、所のマスタープランを作っているが、マスタープランの基本は汚染の激しい製鉄の上流工程を戸畑地区に集約するとともに小規模設備を廃却して数少ない大規模設備を建設して、環境対策をより容易にし、同時に規模の経済を求める事であった。当時、すでに生産性は高くなっており、資金を作る能力も高まっていたので、可なりな巨額の設備投資を必要とする計画を案画することができた。
 地域の大汚染源である製鉄所は、マスタープランで環境改善をはかるとともに生産性を高め、自ら範を示して環境改善の地域のリーダの働きをした。

第15章 戦後の管理者、監督者の能力開発

 戸畑に新一貫製鉄所を建設するとき、社長の指示で、新設備に対する新管理方式が検討され、スタッフ部門の強化、従来、各部で実施していた整備業務の一元化、作業長制の新設が決定した。作業長制は画期的なもので、従来の役付工は組長、伍長であったが、その選任は年功と技能が基準で、管理、監督能力は問題外であった。勿論、責任、権限等が決められている筈がなく、しいていえば、部下のみかじめをするという程度の認識であった。
 伍長の下にいる非公式の監督者班長、あるいは、ボーシンは部下に説明する能力どころか人前で話す事を好まなかった。しかし、会社の方針を示し、具体的に仕事の指導やスーパーバイズに当たるのはこれらの人材で、これらの人の能力を高めない限り仕事の成果を上げえないことから、これらの人の先生になる作業長の能力向上を計った事は極めて必要な事であった。
 監督者の弱体を示す例として、毎朝の始業時間は、常昼工場では定刻、2、30分遅れて作業が始まり、帰りも15分位前に仕事を止めて帰り支度をするのが常であった。この悪い習慣は、工作部門では1965年にも、まだ、残っていた。
 1975年頃には製造部門の作業長や部下の工長の能力は可なり向上した。例えば、1967年に、戸畑製造所の現場に行ったところ、知った築炉の工長に会い、丁度、コスト削減のキャンペーンの時であったので、「あなたの削減割り当ては幾らか」と質問した。 ところが、即座に自分の目標と、コスト削減する対策を説明したのには驚いた。既に、目標管理が有効に行われる素地ができていたのである。
 1965年頃からQCサークル活動や、ZD運動が導入された。当初、管理意識の弱い従業員に遮二無二、自主管理活動を行わせたため、円滑に進まなかった。しかし、工長の指導で1965年頃には次第に一般従業員個人が、品質、原価、納期、安全の責任意識をを持つようになったため、コスト削減のキャンペーンに対しても目標管理で大きい成果をあげることができた。
 この当時、マグレガーの提唱したX・Y説管理が製鉄所に導入されY説管理に対する管理者の指導が行なわれた。話の中で、X管理的な言葉遣いをしようものなら、酷く注意を与えられる。自主管理活動は正に代表的なY説管理である。X説管理から、Y説管理に方式を転換したことは我が国の優れた人材能力から考えて適切なことであった。

第16章 終わりに −環境国際協力は如何にあるべきか−

 北九州地域は、特に八幡製鉄所の戦後の生産性向上に伴う著しい大気汚染や、洞海湾周辺企業による水質汚染を引き起こし、これを克服した貴重な実績をもっている。
 しかし、これには、行政の指導と企業の強い環境意識、環境管理能力、資金力があってはじめて出来たことで、これらの何れを持たない途上国にはそのまま、当てはめることはできない。
 産業環境対策の基本は企業の経済力であり、戦後、企業は生産性向上のために、塩基性転炉のような革新技術に巨額の設備投資をして導入し、また、環境対策が経済的に難しい小規模設備をスクラップダウンして高性能の大規模設備に設備集約することで環境問題を、解決した。
 1963年、五市合併が実現して広域の環境管理ができる状態となり、市は初めて環境調査を行った。市の財政も固定資産税等で次第に豊かになり、1964年ごろから下水道整備が始まり、これが河川、湾の水質浄化に役立っている。
 又、環境行政上極めて重要な点であるが、我が国では行政と経済界とが合意の下に規制値を定めている。例えば、排煙脱硫技術が未開発の段階でのK値によるSOXの着地濃度規制も経済力をも考慮しながら次第にK値を下げており、環境行政が地方自治体に委譲されて後、当地でも1968年頃、北九州市が新設設備に対して総量規制値を示したのに対して、八幡製鉄所では1969年に当時、未開発の排煙脱硫設備の効果を確認するため、排煙脱硫設備のテストプラントを自社で設計、建設して、その効果を確認して後、1971年に新設設備の公害防止協定に合意しており、約束した以上は必ず実行する我が国の企業の姿勢を示している。
 最近、クリーナープロダクションという概念が強調されているが、要するに、資源の生産性を高めることで汚染物質を減らすことを目的とする生産方式を指している。
 今まで、特に、プロセス産業では生産性向上、原価切下げの重要な手段は歩留り、原単位管理であるが、達成手段として管理の強化、即ち、標準作業の実施とヒューマンエラー除去のための自動化、計装システムの整備、設備集約等につとめてきた。
 当時の生産管理は経済性中心であったが、現在では資源の生産性向上が地球環境改善、次の世紀の資源不足対策に通じている。
 しかし、クリーナープロダクションは、人間の躾けや、その他、行動を改善することで設備投資なしで達成可能な分野もないわけでなく、石油危機後の省エネルギー活動の成果も半分は管理によるもので、残りは設備投資を伴うものであった。人間の努力による省エネルギーは、従業員の質が高い場合始めて効果をあげうる。
 現在の途上国には、生産管理という概念がなく、技術も設備保全能力もないのが一般で、到底、クリーナープロダクション等を望みうる状態ではない。
 クリーナープロダクションが必要、かつ有効であることから、当面、従来からKITAが行っているクリーナープロダクションが行える能力を持つ人造りを続けることが必要である。
 我が国の現在の途上国への環境協力は環境の結果を調査して対症療法を行っている。
即ち、環境対策設備の提供である。しかし、たとえ、設備をつくっても運転資金がかかることから、運転しなくなることはわが国でも例があり、又、設備保全能力がないと環境対策設備が動かなくなる。
 途上国に必要な協力は「対因」療法、即ち、人材能力を高めることである。環境協力は西洋医学一辺倒から東洋医学に重点を移す必要がある。しかし、人材育成は、一朝一夕に成果があがるものでないが、だからといって、放任する訳にはゆかない。
 人材の能力が高まって初めて産業の生産性が高まり、環境対策資金を持つ余裕を生じ、持続可能な発展が期待できる。

以上
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